愛知の隠居

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温故 - 愛知の隠居

2017/05/25 (Thu) 12:42:51

温故19 隠居のつぶやき   49より   平成14年
初めて見た中学の県大会
 40年ほど前私が村の中学にいて陸上部の監督をしていた頃かしら。名古屋でバスケの県大会を見た。会場は何処だったか何故見に行ったかは定かではない。でも当時では珍しく体育館で階上から観戦した覚えがある。そのころ私たちの地区では体育館は皆無であった。この時代県を制覇していたのは隣村の小さなH中学で3回程連勝していた。この学校バズ学習(グループ学習)の研究をしており全国に有名となった。部活も郡市大会の球技種目を全部優勝する勢い、これもバズ学習方式とか。(私の中学は水泳・体操・陸上・駅伝で優勝を)小さな村の両中学校が郡市のトップを競っていた。
 このH中のバスケの監督は野球経験者の若い先生だった。聞くところによれば私の住む市にある高校へ同窓生でなかったのにバスケを習いに行ったとのこと。強くなってからは岡崎の矢田先生のところまで生徒を連れていって指導を受けたとのこと。
 さて優勝候補筆頭のH中学は1回戦無名の学校と対戦。監督のS先生自動車学校の試験とかで後から駆けつけるとのこと。1回戦は楽勝と考えていたのか?ゲームが始まった。当然H中が圧倒すると思っていたら相手の方が得点を重ねていく。わたしはバスケは素人でよく分からない。よく見ると奇妙な戦い方を相手はしている。即ちデフェンスは4人でやっている。残りの1人は相手陣営に待っている。デフェンスリバンドで獲得したボールをロングパスでフロントへ投げる。待っていた選手がノーマークでシュート、これの繰り返しである。
 H中の選手に動揺が走る。代理監督では対応ができなかった。あたかも校内球技大会の幼稚な戦法である。遂に優勝候補敗れる。S監督が来たときは時すでに遅し。監督丸坊主になって反省したと聞く。この監督数年前に校長で退職、その時近代文芸社より「教師のつぶやき」を発刊した。異色の教師であった。
(今から55年ほど前のことです。S先生は今は80歳を超えられたはず。現在は地区のバスケ協会長。私の家とは徒歩7,8分の距離。その当時は体育館はなく7回ほど県優勝された。)

新 独り言 - 愛知の隠居

2017/05/21 (Sun) 14:59:13

(1027)姫来宅
 昨夕母親より「娘が明日10時ごろお邪魔するがご都合はいいですか」「もちろん、お待ちしています」1年の余会っていない。姫が2年生3年生と我が家に通って受験勉強をした。教え子の娘の娘。両親ともに私のバスケ部員。滅多に来客のない我が家、久しぶりの対面を楽しみにしていた。
 母親の車でやってきた。母親は忘れ物をしたと取りに帰った。姫が高校生活を楽しく語った。色も白く長髪で一段と可愛くなっている。ホテルでのデイナーの実習とか、自作の服のデザインで選ばれ、制作し着用してのコンテストに7月出ると。高校でいきいきと学んでいるよう。
 姫のおかげで戦中中学3年をほとんど学ばなかった私にとって、大変だったが勉強にもなった。母親が到着。来年の入学案内を持参。なんと表紙に男女二人の制服姿が。その女子学生が姫だった。姫の美貌が認められたのだ。 
 久しぶりに姫にコーヒーを挽いて淹れてもらった。母親と私に。先日来体調がすぐれなかったが姫が来ると聞いてから、元気になった。姫この頃ダンス教室に通っているそうだ。母親の送迎は妹のバスケと相まって休まるところがない。姫一家の多幸を祈る。

温故 - 愛知の隠居

2017/05/18 (Thu) 10:31:48

温故 18 昭和ミニ 隠居のつぶやき より
  ちょっと古い話で恐縮ですが「ミニバス便り 第89号 平成6年1月20日」より
  12月14日、天下で有名な日本一強い昭和クラブの見学に行った。コーチ5人と。このクラブ一昨年は全国2位だったが、その前は2年連続優勝だった。初めての優勝メンバーは全員千種台中へ越境入学、2年生で県、東海で優勝。全国でも優勝の呼び声が高かったが敗れた。そして昨年の夏楽々大差で全国制覇をした。
  夜7時、20数名のメンバーが個人練習を、無駄口もなく始めた。背の高い子が何人もいたので中学生かなと思って聞いたら、小学生という。169cm、167cm、165cm・・・何人もいる。難しいシュートを殆ど落とさない。何処に4年生がいるか分からない。
  会場は中村小学校、監督は服部先生。今年度名徳小からこの学校へ。前の部員がここまで練習に来ている。またいろいろな学校から長身の子や、運動能力の高い子が入部してきている。ボールハンドリングが始まった。凄いスピード、ボールがなくてもできないくらい。ボールを見る人はもちろんいない。
  5対5の速攻練習、3組、後一組は千種台中の全国1位の先輩。激しいチームプレーが続く。(ミス一つにも監督の雷が落ちる。一軍選手は堂々中学生と戦っている。もしかしたらたいていの中学チームは負けるかも。厳しいゲームでも息が上がらない。ビックリ。9時20分頃終わる。服部先生が「子供たちを連れて来てください」と言われた。でもちょっと差がありすぎて・・・。練習日も多く、練習試合や県外の大会にあちこち参加している昭和と比較はできないが、この見学はとても勉強になった。床に入ってもチラチラ昭和の子のプレーが思い出されて、なかなか寝付かれなかった。次の週、この日都合の悪かった2人のコーチが見学に行ってくれた。(以上たよりより)

(以後20年近く経ってから昭和ミニを2度ほど名古屋まで出かけて見学した。服部先生は今は退職され練習会場に不自由され、あちこち移動して休みなく指導されている。藤浪中には卒業期に練習によくこられた。昨今は昔初めてみた中学生かと思うメンバーがずらいと並ぶチームでなく、体格は普通の子たちでむしろ平均以下のチームにみえた。また指導は先生は低学年の子の指導に専念されていた。選手は他の方が指導されていた。昨年度到底歯が立たないと言っていた教え子のチームが大差で勝ったと聞いて耳を疑った。でも全国へは出場されたと聞く。10回を超える全国優勝は凄い。この頃私の顔が見えないと心配されていたそうだ。)

温故 - 愛知の隠居

2017/05/14 (Sun) 11:02:52

温故 17 定年退職
 お手紙 8
堀田先生 この先生の手紙、私をとても高く評価していただいて恐縮、現実はその10分の1もありません。堀田先生はその頃「ゴキブリ先生」と呼ばれていた。毎日学級新聞「ごきぶり」をだしておられた。ゴキブリは何万年も前から生きつづいた強い生きものだから。たしか春に新聞に写真入りで何か回顧録を、だされた報道があった。ともあれ素晴らしい実践を終始継続されかねがね尊敬していた方です。(5年前に退職されたと倅に夕べ聞いた)

 前略
無沙汰ばかりしています。今月(1月10日)の昼放課、私の乱雑な机の上に1冊の本がおかれていました。{あれっー}手に取って持とうとした時、「立田中学校 千賀 勝」の活字が目に飛び込んできました。」早速、私の目は、先生の打たれた活字を読み始めていました。
 わずか10分余の放課時間では、わずかに数ページを読むのが精一杯でした。清掃中も、途中読みであった先生の文章が気にかかって。早く清掃を済まそうと、私の手は、忙しそうに動いていました。そして空き時間の5限目、私は、この時間に私学の調査書書きをする予定でいましたが、それよりも先生の文章が気になり、一気に読みふけりました。
 いつも空き時間はコーヒーでも飲みながらのんびりと仕事をするのですが、この時間は、お茶いっぱい飲もうというゆとりの心は生まれませんでした。先生の若き日の姿を想像しながら、私が生まれた頃の立田中学校での先生のお姿文章中より読み取っておりました。
 顔見知りの先生(伊藤とよ子先生・・・・ひょっとすると南本町に住んでみえる先生ではないでしょうか。私が南小に赴任した時、お世話になり、いろいろ教えてもらいました。杉村正孝先生・・・・天中へ来る以前、私は水泳の審判に行っていました。中、高校と自分は水泳をやっていたからです。林敏陽先生・・・西小にみえて顔見知りの先生。)が何人も登場されていて、びっくりしまた。
 そして佐屋中に行かれてバスケットボールにかかわられての先生の御姿。部創り、バスケットボールへの情熱、部員への愛情など、7秒で県1を失われた時のこと、県優勝のことなど、どの場面を読んでも、いつもそこには、教師として一途に生きてみえる千賀先生の姿が描かれていました。それも真剣に生きる姿が・・・。そして、教育に対する情熱、子供たちを思う優しさ。若輩の私がえらそうに言うのはおこがましいのですが、まさしく千賀先生は”真の教育者”なんですね。「汗と道」の項で書かれたバスケットボールに対する考え、部創りについての考えなど、私には感動でした。
 私は、千賀先生という素晴らしい先生に出会えたこと、うれしく思います。
 どういうわけか私は南小から天王中に赴任してきて、どういうわけかバスケットボール部の素人顧問になり、そして、先生と出会うことができました。先生に初めて出会ったのが、今から2年ほど前の6月だったと思います。おうちゃくいバスケット部員を率いて(いや私が生徒たちに率いられていたんでしょうか)立中へ伺ったときに初めて先生にお会いしました。
 その時、先生の厳しさ、そしてその中にある優しさ人間としての魅力に、私は魅せられました。(すごい先生だなー。)それからちょくちょく伺うたびに、私は先生のバスケットボールに対する情熱、生徒たち対する情熱、教師としての情熱に感動し、尊敬の気持ちを抱くようになりました。(私も、中学生のころ、千賀先生の教えを請いたかったなー。)(先生になってから、直接いろいろなことを教わりたかったなー)
 今家に帰って来て、もう一度、”軌跡”を読み返しました。「おい!これ、千賀先生が書かれた本や!」急ぎ仕事から帰って来て忙しそうにバタバタと食事の支度をやっている女房に一声かけてから読みふけりました。再度、感動して拝読いたしました。
 こんな気持ちを少しでも先生にお伝えしようとペンを取った次第ですが、なにせ筆不精のため乱筆乱文となってしまい申し訳ありません。こんな若輩の力のない一教師にまで貴重なご本を贈っていただき感謝の念にたえません。私も精進して、千賀先生のような”真の教師”に近づけるようがんばりたいと思っています。
 ありがとうございました
堀田 房夫
平成元年1月11日 PM 11時51分
千賀 勝先生

(同僚だった伊藤豊子先生も、教え子、林敏陽も今は亡し。同級生中野光君はだいぶん前に目が異常で賀状は今後中止と。なお何人かの礼状がありましたが割愛します。私は立派な先輩同僚後輩に、かつ純真な子供たちの御陰で、教職を全うできました。実像の私は全く平凡な一教師に過ぎません)

温故 - 愛知の隠居

2017/05/12 (Fri) 15:20:44

温故 17 定年退職
 お手紙 7 斎藤たつ江先生より (毛筆にて)
 桜の花が満開の春、三十九年命をかけて実践していらっしゃった教育道に終止符を打たれるご立派なお姿を想い浮かべながら何回も何回も読み返し感激にしたっております。
 一月にお送り下さいました「軌跡」は唯々涙のうちに感動で手がふるえの覚えながら拝読いたしました。一ページ一ぺージに真剣に生きていらしゃった情熱的なお姿がにじみ出ており、先生のお言葉一つ一つが胸にしみます。本当に素晴らしい先生にご指導指導していただきましたことが何よりも嬉しく存じます。もし西ブロック中学校教務主任会で先生にお目にかかれなかったならば、私の人生も教師生活も変わっていたと思います。中学校でも勤めることができましたのは、先生のお導きのおかげでございます。又、一宮南中への訪問研究会アルバムの記録作り等、私にとって大きな宝物となりました。これも先生にであえたからです。ありがとうございました。どうぞ今後も今ま以上に指導下さいます様伏してお願い申し上げます。
 私も仕事を終えるときまで、先生のように常に情熱的で,子どもたちのことに真剣に立ち向かうことのできる心の若い温か味のある教師でありたいと念じております。そしてささやかでも足あとの残る教師でありたいものだと思っております。先生をお手本に頑張ります。どうぞご指導くださいませ。
 学校の花壇、植木鉢に咲いている春の花でしおりを作ってみました。「心の花を咲かせたい」の方は、昨年度の卒業生に一枚ずつ贈ったものの残りです・もう一つは、先生を思い出しながら心を込めて作りましたものですご笑納いただき、メモ帳にでもはさんでお使いくだされば幸いです。秋竹小に転勤して以来学校花壇(FB)を担任しています。すべてを信じて精いっパイ自分の花を咲かせることのできる草花に魅せられております。そして子どもたち一人一人に自分の花を咲かせたいと念じております。
 自分勝手なことを長々と記しましたどうぞご判読くださいませ。
お身体くれぐれの御大切に、また、お目にかかれます日を楽しみにしております。
                             斎藤たつ江
四月二日
 千 賀 勝 様
   追伸
     「軌跡」私の宝がまた一つ増えました。大切に活用させていただきます。ありがとうござおました。

 かって息子が小学校教師の時教務主任が斉藤先生でした。女性の教務さんなんて居ない時代でした。噂を聞くととてもしっかりして有能な方だと聞いていた。二つの町と二つの村の中学校六校が西ブロックで、毎月一回会合を開いていた。今一人女性教師がおられた。ご主人は私の中学同級生で出身の高校の校長だった。彼女も有能な先生だった。この頃から女性の登用が始まった。斉藤先生は息子の言っていたとおり実力のあるかたでした。毛筆のお手紙見事な達筆で感心した。最終は教頭職をなされたそう。

温故 - 愛知の隠居

2017/05/08 (Mon) 09:01:17

温故 17 定年退職
 お手紙 6
拝復 {軌跡}をお送りくださってありがとうございました。この3月で教職を去られること、本当にご苦労様でした。特に私に故郷立田村でのおつとめが最も長くいて下さったわけで感謝申し上げる次第です。
 千賀君が立田中学赴任されたときの充の喜びようが今も眼にうかびます。千賀先生が兄貴の同級生であるとことを知ったことが、いささか誇りに思えたのでしょう”おれは千賀先生に見守られている”という信頼があったように思います。千賀先生が大好きになったことがよくわかりました。今は亡き弟とともにお礼を申し上げたい気持ちになります。わすれ形見の息子孝之もこの春高校へ進学する予定です。父に似て勉強家ではないようですが、人間的にはとてもすなおで、みんなからすかれているようです。何とか父の分まで健康で活躍してほしいと願っています。3年先はどうなるかわかりませんが。成績さえよければ教育養成の大学、学部に進んでくれるとよいが、と期待しています。
 まだまだ仕事ができる年齢です。貴兄のことですから今後の課題をいっぱいお持ちのことと推察しますが、どうかお元気にご活躍下さい。平素失礼をかさねていることをおゆるしください。今後ともよろしくお願い申しあげます。
一月十五日
中 野   光
千 賀 勝 様

 中野 光君は1990年に中央大学教授。2000年、定年退任。日本生活教育連盟委員長

今昔物語より
第26話 痛恨の教え子 中野充君 昭和33年卒

 勉強は良くできたが勉強家ではなかった。スポーツは万能で水泳、相撲、ハンドボールの試合で大活躍、県トップの水泳部に助っ人にいくのだからたいしたもの。人望家で誰からも「充ちゃん、充ちゃん」と慕われていた。
 勿論体操部主将。胸幅広く頑健な体格。父親は名古屋市の小学校長、母親は元教師、兄は光(あきら)君でこの頃は東京文理大を卒業して桐朋小学校教師(後、金沢大、和光大、立教大、中央大で退職)で私の旧制中学の同級生だった。 彼は持ち前の運動能力を持っており、高鉄棒、跳び箱、徒手体操で難度の高い技をマスターしていた。真夏の郡市大会が市の中学校で行われた。勿論会場は運動場である。
 充が高鉄棒で逆車輪に入った。見事な演技でうっとり見とれていた。突然彼が視界から消えた。はるかマットの向こうにうつぶせに倒れているではないか。汗で手が滑って飛んだのである。あげた顔から鮮血がほとばしった。鼻血である。たまたま帰省していた兄の光君は、弟の勇姿を撮さんとカメラを向けていてレンズから消えた弟にびっくりした。 保健室で休養の後残りの種目を続けた。鉄棒の減点はあったが個人総合優勝を獲得した。他の仲間も頑張って総合団体優勝できた。
 充は地元の県立高校に入学と同時に、前年私の小学校時代の教え子が中心で創った体操部に、クラブ仲間の伊藤峰夫と共に入部。後愛知教育大体育科に進学やはり体操部に入る。ところが風邪をひいているのを無理して大会に参加し、腎臓病に冒された。入院、以後死線をさまよい大学中退、手術後長期療養、透析しつつ結婚、男児をもうけたところでこの世を去る。私が体操の魅力を教えたばっかりに寿命を縮めたのではないかと悔やまれた。  もし無事健康で大学を出ていたら、どんな素晴らしい教師が生まれたかと思われて仕方がない。私が多く育てた部員の中で彼だけが悲しい思い出として何年も心にひっかっかっていた。彼の死後母と子は実家のある四国へ帰ったとのこと。
 話変わって平成6年のある日一通の封書が届いた。裏を見ると長野発で見知らぬ名前が書かれていた。怪訝な気持ちで封を切ると便せんと一葉の写真が出てきた。写真には一人の若者が写っていた。全く未知の人物だ。間違いの手紙かと表を見るがまさしく私宛だ。急いで便せんを読む。「・・・・私は中野充の遺児です。今信州大学教育学部体育科の生徒です。父の夢を継ぐため勉強中です・・・・・。」ビックリしました。そして嬉しかった。胸のつかえが消えた。そして救われた思いがした。早速古いアルバムを取り出し、彼の父の中学時代の鉄棒や跳び箱での活躍のスナップ写真を、取り外し送ってあげた。
 昨年同窓会で会った充の兄(東京から参加)から、遺児は現在長野で教員になり頑張っておると聞き、喜ぶと同時に亡き充の冥福を祈った。

温故 - 愛知の隠居

2017/05/07 (Sun) 08:43:41

温故 17 定年退職
 お手紙 5
水野義行校長さんより
 私が退職時の学校長さん。多くの校長さんに接したが。大変真面目で几帳面なかたでした。出勤は若いときから毎朝1番にバイクで登校、三重県桑名から。他の先生が1番を取ろうとすると、もっと早く登校される。出張の場合必ず帰校し必ず校内点検された。私が教務で学期末通知表点検を部活後にするつもりで、書庫にいれておくと、校長さんがとり出して点検印を押される。付箋も入っていた。校長さんのあとで私が形式的に点検した。
 ある時歯が痛いと苦しんでおられた。「先生、歯医者に行かれるとよい」と再三勧めたが勤務中だからと辛抱されていた。本当に真面目で固い方でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御手紙
 拝啓、先生の貴重な記録”軌跡”拝読いたしました。 読んでいくにつれ先生のお姿がありありと思い出され、頭の下がる思いが致しました。特に、立中の部活動が停滞気味の中で、先生が御自ら実行をもって若手に刺激を与えて下さった当時が脳裏に浮かび、今更ながら感激致します。
 本当にご苦労様でした。
”軌跡”を拝読して、先生の素晴らしい業績に改めて敬意を表します。また、私は、立田中の関係者として、先生が立田中で教職の最後を飾られますことを慶びとする一人です。先生の、立田中を思われる御心は、折にふれ現れ、生徒はいうまでもなく、保護者へも感動を与えて戴きました。立田村にとっても、かけがえのない貴重な先生であったと思います。
 先生の、益々のご健勝とご多幸をお祈りします。
{追記} ご覧のとうり、私も何とかワープロを使うことができるようになりました。使ってみると、やはり便利ですね。
こんなことを言っているようでは、やはり年ですね。我ながら年齢を感じてしまいます。  共々に頑張りましょう。
平成元年1月12日
水野義行
千 賀 勝 先生

新 独り言 - 愛知の隠居

2017/05/05 (Fri) 13:46:29

(1026)私のGW
 5月2日私の後継者K君(と、いってもすでに20年)からメール「3日、4日、27日4チ-ムで練習試合を行います。迎えにいきますので観にきてもらえませんか」
「有り難う、有り難う、好意感謝、 もうバスケは引退です。 バイクも4月早々廃車、自転車を買って練習中。近距離だけが目的。・・・」折り返しK君から「引退しないでください、まだまだアドバイスをお願いします」
 私が孤独な生活をしているのを案じての誘いだと思った。最近どこのチームも部員が少なく困っているのに、彼の所は部員40名をこえる大所帯である。先年度までは強豪チームだったが今年はやや弱小。なのに私を再度誘ってくれる。私はその好意に甘えた。
 8時かっての教え子のH君が迎えに。草平小学校、初めて入った体育館。この小学校は私の両親が通った学校であり、娘が初赴任したところでもある。
 長太(三重)阿久比・不二・佐織・立田(愛知)でAチームBチームがそれぞれ勝敗を競った。
 4日は北河田小学校で紀伊長島(三重)二川・不二・立田(愛知)。平素6時起床だが8時出発とて携帯の目覚ましを5時に設定。目覚めたよく眠ったと時計を観る5時少し前早速起きあがり着替えフトンをしまった。改めて電子時計を観たらなんとまだ1時ではないか。これはダメだと再びフトンをだし着替えて床につく。こんなこと初めて、やはりぼけたか?早朝プラスチックごみ提出日、一覧表確認後集積場へ。早いためか何も置いてない。帰宅して曜日を確認したら提出日は昨日だった。やむなく取りに行く。ミスの連続。 迎えに来てくれたのは横井君、父親の結婚式に招かれたことがある。彼は次男、娘はキャプンテン。紀伊長島って聞いたことがあるが、もしかして藤浪に来ていた子のチームだったかな?
 一人のお母さんが舞台に向かってこちらへ、やっぱりAさんのお母さん。チームを守っておられる(かっての監督さんが亡くなられた後を)。全くの奇遇A子さんはすでに大学2年生。
 両日とも子供達は目を輝かして戦っていた。Aチームはどこもかなりのレベルで観ていて楽しかった。すでに前日どこかでゲームして1泊し参加した紀伊長島チームは、とても強かった。恐らく三重ではトップでなかろうか。新しい監督さんの指導が卓越しているのだろう。2日間K君のお陰で満ち足りたGWだった。
 朝方チヤイム、誰れかと思ったらお坊さん、しまった今日はお袋の月命日、あわてて仏壇の電気を入れ座布団を敷く。脳の働きどんどん下降・・・・。

温故 - 愛知の隠居

2017/05/04 (Thu) 06:14:03

温故 17 定年退職
 お手紙 4
 野呂先生よりは巻紙に達筆で草書体で書かれていたので、読めない文字もあって難儀しました。
拝復 御丁寧な御挨拶状を賜り恐縮至極にぞんじます。まことに因縁深く若き日貴台と共に立田中教育のために全力投球をしたること思い出します。
 貴台には最後の御勤めをこの立田中にて終わられ本当にご苦労様でしたと申し上げたく村民一同先生のお人柄を敬仰しております
愈々第二の人生へスタートされますが どうか充分御自??(読めません)向後とも本校のため、ひいては社会のためご尽力を給わりますようお願いを申し上げます どうか気軽にお遊びに来てください(だし小生在宅TELの上)
御健勝御発展念じつつ  合掌
   四月四日
                             野呂界雄
千賀勝先生

野呂先生
 私が中学に転任したときの教頭先生で村のお寺の方だった。まだ40代後半のとても温厚な先生だった。書も絵も上手な方で、村の青年を集めて成人教育もされていた。かって先生の師範学校時代の修学旅行のレポートをみて、その内容の素晴らしさに舌を巻いた。石油ストーブの注入で火災をおこし本堂が焼失されたことがあった。教育事務所に転じ
後中学校長をされた。
 家内が特養に入所しているとき先生にお会いした。挨拶したが反応が不自然だった?先生が入所されているかデーサービスできて見えたかは不明。廊下に先生の描かれた似顔絵や書が掲示されていた。かって同窓会で先生の寺で亡くなった教え子たちのお経を息子さんにあげてもらった。そのとき先生はかなり病が重く家で寝ていると言われた。

温故 - 愛知の隠居

2017/05/02 (Tue) 09:04:49

温故 17 定年退職
御手紙 3
 先生、貴重な「軌跡}を慶贈下さいましてありがとうございました。先生のバスケットボールをとおしての(おもいやり)のあるご指導、心より敬意を表します。三月でご勇退とのこと誠に残念な気持です。先生とご一緒に九州までドライブした時のことが思い出されます。あれから十五年以上もすぎているのですね。私も六十五才になり監督としては、日本では最年長ではないかと思います。
 毎日コートに出る喜び、好きなこの道をつづけられることに感謝しているこの頃です。年齢ではなく、意欲(ファイト)であるといます。
 同封の「清らかな汗」(安木のころ)は昨年の夏安木高校のOG会を当地でやったときに編集したものです。ご高覧下されば喜びます。
まずはお礼まで
      平成元年一月十二日
新井春生

{原田茂先生が短大でインカレ優勝した監督は3人、自分と元市邨短大(現 名古屋経済大学)の新井先生と今お一人(名前をわすれた)と言われた、その有名な新井先生に山陰から九州へと連れて行っていただいた。県大会3度目の決勝戦今度こそ優勝と思ったとき、残り7秒にして逆転され傷心していた私を励ますために。先生の実家にも宿泊させていただいた。
 早く父親を亡くされ弟さんと妹さんを育てられたそう。高校教師の弟さん、妹さんは
日本女子大の助教授(当時)。先生は小学校の教師をしながら国体(高校)優勝、安木高校を全国トップレベルにさせられた。
 25年11月の25回応時杯に90歳の新井先生が来られお話をされたと、HPで写真も拝見できた。しかしそのあと92歳でお亡くなりになったと知った。


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